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岸和田城の裏話
 

抜け穴伝説

日本各地にある城郭には、それぞれ抜け穴があるという伝説をよく耳にします。当然岸和田城にもその伝説があるらしく、いろいろな文献を調査してみると、「ふるさと岸和田」内田幸彦著には、次のとおり記載してありました。

旧岸和田藩御用人、萩助左門衛門の三代目子孫の話しによると、萩助左門衛門は並松町菊右門橋川尻に別邸を持っていた。その別邸の草むらにほら穴の入り口があり、西側に大砲が座っていて、いつも小舟が用意されていた。と父母から何度も聞かされた。

 

岸和田城抜け穴と推測される地図

(赤線 赤い線は「抜け穴」の推定ルート)

想像図によれば、現在の大阪府立岸和田高等学校あたりから地下に潜り、自泉会館あたりから斜めに欄干(らんかん)橋に達している。欄干橋から古城川に沿って下がり、砂町橋(海に向かって次の橋)を右折すると、ゴルフの練習場がある。これが旧岸紡本社であり、問題の萩助左門衛門の別邸跡である。

(当時岸紡本社に勤務していた貝塚嘉一氏の話によれば、この紡績の共同便所付近に石段があり、地下五メートルの所に幅七十センチメートル・高さ九十センチメートル位の通路があって、大人でも少し腰を落とせば通れたという。)

そして、砂町の所から地上に出られたという話しも伝わっている。

(戦時中は、防空壕となっていたとの話もあるが、子供たちにとっては絶好の遊び場だったに違いない。)

その後、好事家・郷土史家らが調査研究した結果、地下道は存在したが、これが『岸和田城の抜け穴』だという決定的な証拠は見つからなかったようです。
城の抜け穴に関する伝説は、ここ岸和田城だけではなく、姫路城、熊本城、大阪城、丸亀城、明石城ほか各地の城郭にもあります。ただそれが事実なのか、それとも憶測に過ぎないのか、想像の域を出ません。


 
  欄干橋の看板から  
 

 

岸和田城の石橋